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アマゾンに地上絵、古代社会が? [考古学]

「古代アマゾンの地上絵、衛星から発見

2010年1月5日(火)15時43分配信 ナショナルジオグラフィック

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 ブラジル、サンタテレジーニャの畑で発見された円形の模様(撮影日不明)。Photograph courtesy Edison Caetano

 アマゾン盆地の高原地帯で、これまで熱帯雨林に覆われて見えなかった円形や四角形などの幾何学的模様が数百個発見されたとする研究が発表された。1999年以降に撮影された衛星写真から、250キロ以上の距離にわたって200を超える幾何学的図形の地上絵が確認されており、これまで明らかになっていなかったアマゾンの古代社会が存在していたことの証拠となる可能性があるという。

 地上絵が描かれた目的は不明だが、この10倍近くの数の地上絵が、アマゾンの森林に隠れて人知れず眠っているのではないかと推測されている。

 ブラジルのベレンにあるパラー連邦大学の人類学者で、この研究の共著者であるデニジ・シャーン氏によれば、少なくとも1カ所は西暦1283年前後のものとされているが、西暦200~300年にまでさかのぼる可能性があるものもあるという。

 今回の発見は、かつてアマゾンの奥地に数多くの村落から成る複合都市が存在していたが、15~16世紀にヨーロッパからの入植者が南米に持ち込んだ疫病によってほぼ全滅したとする説を補強するものになる。

 現在、これらの村落についての記録は残されていない。そのため、アマゾン川上流地域の土壌が非常にやせていたことが原因で、大規模な定住集落の住民を賄える規模の農業を営むことは不可能だったとこれまで考えられてきた。しかし「その想像は間違いだったことがわかった。この地域では、さらに多くの発見が期待できる」とシャーン氏は話す。

 新たに発見された地上絵は、幅およそ11メートル、深さ1~2メートルの溝でできており、その両脇に高さ最大1メートルの土手が積まれている。さらに地上絵の多くが互いに直線の道で結ばれている。

 2008年に行われた予備的な発掘では、家庭用の陶器や炭、砥石のかけらなど、人間が居住していた証拠が混ざった土が、いくつかの地上絵の周囲に低く盛られていたことが明らかになっている。

 しかし、誰がどのような目的で作ったのかは依然謎のままだ。外敵からの防衛のための建造物とする説、儀式会場や住居とする説など、さまざまな見方がある。

 アメリカ、カンザス州ローレンスにあるカンザス大学の地理学者で人類学者であるウィリアム・ウッズ氏は、この研究には参加していないが、建造物の用途は時代とともに変わっていった可能性もあると指摘する。「例えばローレンスの街にはフリーメイソンの寺院があったが、現在はバーとして使われている。また、銀行だった建物が今では“テラーズ”(窓口係)というレストランだ。こういうことは、時として起こるものだ」。

 研究チームが最も驚いたのは、地上絵がアマゾン川の氾濫原地域と高原地域の両方で発見されたことだ。一般にアマゾンの氾濫原の土壌は肥沃なため、村落の形成に適していたのに対し、土地のやせた高地には人間はあまり住まなかったと考えられてきた。しかも双方の地上絵の様式が似ていることは、同じ社会に属する人間によって作られた可能性を示している。

 研究の共著者であるシャーン氏は、「古代アマゾンの研究においては、生態系の異なる場所には異なる民族が住むと考えるのが一般的だった。したがって、一つの文化が異なる生態系の恩恵を受けながら、これほど広範囲に拡大しているというのは、いささか奇異に感じられた」と語る。

 シャーン氏は、高原地帯には6万もの人々が居住していたと推測している。この数字は、今回発見された地上絵のような規模の建造物を造るのに必要と考えられる社会組織と労働力に基づいて算出されたものだ。

 カンザス大学のウッズ氏によれば、当時の複合都市についてほとんど何もわかっていない現状を考慮すると、この推計人口は大まかではあるが合理的な数字だという。今後数年間にわたって行われる発掘作業で、より正確な答えが明らかになるかもしれない。

 ウッズ氏は何より、人間が住んでいなかったと長年考えられてきた地域にこれほど多くの人が住んでいた可能性が出てきたことに感銘を受けている。「これまで長い間、アマゾンの上流地域にどのくらいの人数が住んでいたかと人類学者や考古学者に聞いたら、皆ほとんどゼロだと答えていただろう。人間が一人も住んでいないと考えられていた場所に6万人もの人間が暮らせていたというのは驚くべきことだ」と話している。

 この研究は「Antiquity」誌1月号に掲載されている。

John Roach for National Geographic News」

「アマゾンに広がる古代都市ネットワーク

John Roach
for National Geographic News
August 28, 2008

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 コロンブスが到着する以前、ブラジルのアマゾンには、町や村がかなりの密度で整然と造られていたようだ。8月28日、人類学者チームがその地図を完成させたと発表した。今回の研究によると、ヨーロッパ人入植者が到着する以前、“原始的な”熱帯雨林が広がる広大な土地には、実際には洗練された都市景観があった可能性があるという。

 研究チームの一員でフロリダ州ゲインズビルにあるフロリダ大学の人類学者ミヒャエル・ヘッケンベルガー氏は、「通常の都市モデルから想像できるものとはまったく異なる姿がそこに存在した。それでも、地域全体に数多くの定住地があり、その内部構造や各拠点の関係には一定したパターンがある。中世ヨーロッパの都市に比肩するような、計画的で秩序立った社会が存在していたと考えることができる」と話す。

 近年、「かつてアマゾン川流域には大規模な社会が数多く存在していたが、15~16世紀にヨーロッパ人入植者らが持ち込んだ病気のために、そうした社会はほぼ消失した」とする学説が論争を巻き起こしているが、今回の発見はこの学説を支持するものだ。

 この学説によると、今日アマゾンに残っている孤立した部族は、かつての偉大な社会の最後の生き残りだということになる。研究チームは「この学説が正しいとすると、古代定住地のネットワーク構造の研究が進めば、今日アマゾンに残っている先住民族や森林の保護管理のあり方を改善するヒントが得られるかもしれない」と語る。今回の研究チームには、ヘッケンベルガー氏などアメリカからの研究者だけでなく、ブラジル人研究者やアマゾンの先住民族であるクイクロ族の人々も参加している。

 1993年、ヘッケンベルガー氏は、アマゾン川支流のシングー川の源流近くに住むクイクロ族と生活を共にした。滞在から2週間、ヘッケンベルガー氏はこの地に古代の定住地があることを知り、以後15年かけて詳細に調査し、古代都市ネットワークの地図を作成した。

 現在までのところ、ヘッケンベルガー氏は、町や村などの定住地が集まる主要な“政治都市”を少なくとも2つ特定している。それぞれの都市では、中央に儀礼的な権力を示す玉座があり、そこから幅の広い大通りが周辺の村に向けて放射状に伸びている。また、それぞれの定住地は中央広場の周囲に整然と並んでおり、正確に結ばれた道でほかの定住地とつながっている。最盛期には、おそらく何千人もの住民が住み、面積はおよそ60ヘクタールあったと考えられている。

 夏至の太陽の動きに沿って造られた大通りは中央の広場で交差している。ヘッケンベルガー氏は「大きな町は、権力を示す中央玉座を中心にした基本方位に配置されており、中世ヨーロッパの都市と同様に壁が築かれていた」と話す。小さな村については、まだわかっていないことが多いという。

 現在ではほとんど樹木で覆われているが、定住地の間には農地が点在しており、キャッサバなどの作物が作られていた。また、養魚場として使われていたと考えられるダムやため池も確認されている。1250~1650年の最盛期には、地域全体の人口はおよそ5万人だったと考えられる。ヘッケンベルガー氏は「非常に計画的な構造で、地域レベルでパターンが一定している。都市社会の証しとなる地域計画や政治組織の存在を示すものだと言えるだろう。方位や距離が正確で、中世ヨーロッパの都市よりよほど計画的だ」と話す。

 ヘッケンベルガー氏は「先コロンブス期のアマゾンに見られる古代定住地ネットワークは、かのイギリスの都市計画学者エベネザー・ハワードが1902年の『明日の田園都市(Garden Cities of To-Morrow)』で構想した町のあり方に非常に近い」と話す。ハワードは、巨大都市を自然界にとって目障りなものと考え、小さな都市を緊密につなげるネットワーク構造を理想の都市としていた。「もしハワードがシングー川のことを知っていたら、本の1章を使っていただろう」とヘッケンベルガー氏は言う。かつて広がっていた“田園都市”は、アマゾンや先住民族の暮らしを破壊する現代文明に代わるものなのかもしれない。

 なお、この研究成果は8月28日発行の「Science」誌に掲載されている。

Map courtesy Science/AAAS」


ナスカの地上絵はよく知られていますが、アマゾンの奥地の熱帯雨林に覆われた地域に『地上絵』が存在していたというのは驚きでした。そうなるとアマゾン奥地にインカ・アステカ・マヤ・などと並ぶかなり高い文明を持った『複合都市』が存在していたということになる訳です。アマゾン奥地は未開の民族が少数住んでいた程度で、ほとんどゼロに等しいとした従来の学説が覆されることになり、古代アマゾンの歴史は塗り替えられることになりそうです。

衝撃の古代アマゾン文明―第五の大河文明が世界史を書きかえる

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卑弥呼の宮殿?奈良で3世紀の大型建物跡出土 [考古学]

「卑弥呼の宮殿?奈良で3世紀の大型建物跡出土!!

2009年11月10日(火)17時32分配信 読売新聞

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3世紀前半としては国内最大の建物跡(右上)が見つかった纒向遺跡の発掘現場=5日、奈良県桜井市で共同通信社ヘリから

 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、女王・卑弥呼が活躍した時代にあたる3世紀前半~中頃の大型建物跡が見つかったと、市教委が10日、発表した。

 当時としては国内最大の規模であることから、「卑弥呼の宮殿だった可能性がある」とする研究者もおり、邪馬台国論争に一石を投じそうだ。

 大型建物跡は南北19・2メートル、東西6・2メートル以上(推定12・4メートル)の規模で、柱の直径は約32センチ。掘っ立て柱の建物で、高床式とみられる。この建物を含め、少なくとも4棟が一列に並んでいた。現場は小高い台地が大規模に造成されており、南北約100メートル、東西約150メートルに及ぶ区画があったとみられる。市教委は「整然とした計画に基づいて築かれた国内最古の建物群」としている。

 現地説明会は14、15両日午前10時~午後3時。

 白石太一郎・大阪府立近(ちか)つ飛鳥博物館長(考古学)の話「大型建物が邪馬台国の政治や宗教上の中心的な施設であった可能性が十分ある。飛鳥時代より前の国家的施設については全く分かっておらず、今後の研究の重要な資料となる」

 ◆纒向遺跡=東西2・5キロ、南北1・5キロの範囲に広がる、3~4世紀では国内最大の集落遺跡。関東から九州まで各地の土器が出土しているほか、近くに「卑弥呼の墓」との説がある箸墓(はしはか)古墳など多くの大型前方後円墳があり、大和王権誕生の地とされる。」


まだ、卑弥呼の宮殿かどうかは分かりませんが、大和朝廷初期の大型建築物であることは確かです。邪馬台国論争に決着を付ける発見となるのか。今後の調査結果が待たれます。

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